売れない、というのは、音のしない出来事である。
何かが壊れるわけでも、誰かに叱られるわけでもない。ただ、夕方に店を閉めるとき、朝とまったく同じ場所に、まったく同じ品物が並んでいる。それだけのことだ。それだけのことが、ひと月続き、半年続き、やがて年を越すと、人はすこしずつ猫背になる。
私は古い道具を商っている。
仕入れの朝はいまでも胸が鳴る。市で箱を開けるとき、蔵から出たばかりの皿の冷たさに触れるとき、これはいい、これは誰かが探している顔だ、と思う。思って、値を付けて、棚に置く。客は来る。手に取り、裏を返し、値札をちらりと見て、そっと、もとの位置より一寸だけずれた場所へ戻す。「また来ます」と言う。商いを始めてすぐに覚えたが、「また来ます」は、もう来ないという意味の符丁である。
帳場の奥に、ラッパ式の蓄音機がひとつある。
店を開けた年に仕入れたもので、一度も売れたことがない。真鍮のラッパは磨けば光るが、その光り方がどうも鈍くて、夜店のがらすだまに似ている、安く見える、と古い同業は言った。客は決まって一度は足を止め、ラッパの朝顔をのぞき込み、針の置き方を尋ね、それから不思議に、皆おなじ顔をして離れていく。何かを聞いてしまったあとのような、妙にあらたまった顔である。
宵、帳簿を繰りながら、私は嘆く。
声に出すこともある。家賃のこと、相場のこと、隣町の店ばかり景気のいいこと。誰もいない店で漏らす嘆きは、どこへも届かず、品物のあいだに落ちて、埃と同じところに積もっていくのだと思っていた。
ある晩、ふとした気まぐれで、蓄音機に盤を載せた。
音楽の盤ではない。仕入れたとき箱の底に一枚だけ入っていた、何も刻まれていない、まっ黒な空の盤である。針を置くと、ラッパの奥から、さらさらという、夜の雨に似た音がした。そして、その雨にまじって——長い、低い、ため息のようなものが、ひとつ、聞こえた。
私は針を上げた。店は静かである。表を車が一台通り過ぎた。もう一度針を置くと、また同じあたりで、同じ息が漏れた。
空の盤に音は刻めない。そんなことは知っている。針先と埃のいたずらだと言ってしまえば、それまでの話である。けれどその晩の私には、それが、七年ぶん積もった私の嘆きが、ようやく順番に外へ出てきたもののように聞こえた。あの妙にあらたまった顔で離れていった客たちは、ひょっとすると、これを聞いていたのではないか——そう思いかけて、やめた。確かめる方法がないことは、確かめないほうがいい。
翌朝、私は蓄音機の値札を外した。
売るのをやめたのである。売り場から帳場の隣へ、品物の側からこちらの側へ、置き場所を替えた。非売品と札を書こうとして、それもやめた。売らないものに、札はいらない。
ところが、おかしなもので、それからの店は、少しだけ風通しが変わった。
品物が飛ぶように売れだした、という都合のいい話ではない。帳簿の景色はたいして変わらない。ただ、客が長くいるようになった。蓄音機に目を留めて、これは、と尋ねる。売り物ではないんです、と答える。すると客は決まって、急に惜しそうな顔をする。値札が付いていたころには、誰ひとりしなかった顔である。手に入らないとなった途端に人は欲しがる——というのは商いの古い知恵だが、私がこの蓄音機から教わったのは、もう少しべつのことだった。
売れない品は、店の恥だと思っていた。帳簿の上では、いまでもそうである。けれど、売らないと決めた途端、あれは恥ではなくなった。店の道連れになった。嘆きの置き場所ができた、と言ってもいい。宵に帳簿を閉じて、たまに針を置く。さらさらという雨の奥で、誰かがひとつ息をつく。私のものか、盤の前の持ち主のものか、それともただの埃の音か。もう確かめないことにしている。
商いというのは、品物を手放していく仕事である。それなのに、手放さないと決めたひとつが、いちばん店を支えている夜がある。勘定の合わない話だが、勘定の合わないものをひとつ抱えている者のほうが、どうやら長く店を開けていられるらしい。