券売機のボタンが、ひとつだけ、白く光らずに黒く沈んでいた。

天ぷらそばが売り切れなのだった。私はかけそばの食券を押して、蒲田の駅前の、その立ち食いの店に入った。夜の十時を回っていた。煮干しと醤油の湯気が、戸の隙間から往来へ逃げていく。

「かけ、ねぎ多めで」

「あいよ」

カウンターの中の主人は、私のほうを見もせずに、湯切りの網を鍋に沈めた。客は私のほかに、二人いた。

向かいの、コの字のカウンターの端で、作業着の男が、きつねうどんをすすっていた。四十くらいだろうか。背中を丸めて、丼に顔をうずめるようにして、油揚げを噛んでいる。咀嚼にあわせて、こめかみのあたりが動く。喉が鳴る。箸の先から、つゆの滴が落ちる。べつに、行儀が悪いわけではない。ごく普通に、腹の減った人間が、うどんを食べているだけだ。

それなのに、その顔を見ていると、わけもなく、わびしくなった。

なぜだろう、と私は思った。隣の見知らぬ人が本を読んでいても、わびしくはならない。歩いていても、煙草を吸っていても、ならない。けれど、人が一人で、黙って、ものを食べている姿には、見ているこちらの胸の底を、つめたい手でなでていくようなところがある。

主人が、私の前に丼を置いた。

「おまちどお」

湯気が顔に当たった。私はねぎの浮いたつゆを一口すすって、それから、自分の食べる手つきに、ふいに意識が向いた。きっと私も、いま、あの男と同じ顔をしている。背を丸めて、丼に顔を近づけて、こめかみを動かして、喉を鳴らしている。腹を満たすという、それだけのことに、顔じゅうを使っている。

食べるというのは、人の顔から、いちばん隠しごとを剝ぐ動作なのだと思う。

仕事をしている顔には、かまえがある。人と話す顔には、よそゆきがある。笑う顔さえ、いくらか作れる。けれど、ものを食べている顔だけは、作りようがない。腹が減って、口に運んで、噛んで、飲み下す。そこには、その人が今日も一日、体を保たせて、明日もまた保たせようとしている、生き物としての、むき出しの段取りだけがある。立派な肩書きの人も、夜の立ち食いでうどんをすすれば、ただ、明日まで体を持たせようとしている一匹の動物に戻る。

わびしさは、たぶん、そこから来る。

人の食べる顔を見るとき、私たちは、その人の人生のいちばん地味な底——どんなに上を目指しても、結局は毎日、体に燃料をくべて、ただ続いていくしかない、という底を、不意に見せられてしまう。本人が見せたつもりもないのに。だから、わびしい。そして、わびしいと感じる私自身も、同じ底の上で、同じようにそばをすすっている。

そこまで考えて、私は、つめたいことに気づいた。

私は、あの男の食べる顔を見られる。主人は、私の食べる顔を見られる。店じゅうの誰もが、たがいの、いちばんむき出しの顔を、見ようと思えば見られる。けれど、ただ一人、私だけが、私の食べる顔を、一生、見ることができない。

カウンターの奥に、油でくもった鏡が貼ってあった。

私はそこに映る自分を見ようとした。けれど、そばをすすろうと顔を伏せれば、鏡には頭のてっぺんしか映らない。顔を上げて鏡を見れば、口は止まっている。食べている瞬間の自分の顔と、目を合わせることは、どうやってもできない仕組みになっている。鏡も、写真も、その一点だけは、私に返してくれない。

つまり、私のいちばん無防備な顔を、私だけが知らない。

世界じゅうの他人が見られるものを、自分だけが見られない。そういう顔を、私は一日に三度、何十年も、人前にさらして生きてきた。わびしさの出どころは、人の食べる姿そのものより、むしろ、こちらのほうだったのかもしれない——と書きかけて、やめる。かもしれない、では弱い。出どころは、これだ。私は、私の生き物としての顔を、ただの一度も、見たことがない。

「ごちそうさん」

向かいの男が、つゆを飲み干して、丼を置いた。立ち上がると、思ったより背が高かった。背を伸ばしたその顔は、もう、さっきのむき出しの顔ではなかった。ありふれた、くたびれた、夜の通行人の顔に戻っていた。彼は券売機の脇のおしぼりで口を拭いて、戸を開けて、雨上がりの蒲田の夜へ出ていった。

私は残りのそばを、急がずに食べた。

伸びかけた麺は、つゆをたっぷり吸って、重くなっていた。私はそれを、こめかみを動かし、喉を鳴らして、最後の一本まで食べた。誰かが見ていたかもしれない。見ていたなら、その人は、私のいちばん無防備な顔を、私の代わりに見てくれたことになる。丼を返して、私は店を出た。アーケードの蛍光灯が、濡れた路面に、長く伸びていた。