私の仕事は、知らない人をなだめることである。
サポートセンターの、夜の側にいる。荷物が届かない、注文が二重になった、約束した日に誰も来なかった。電話の向こうの人は、たいてい一日ぶんの不機嫌を抱えてかけてくる。私はそれを受ける。受けて、低い声で、申し訳ございません、と言う。一晩に何十回も言う。だんだん、その言葉が自分のものなのか、ただの音なのか、分からなくなる。
去年、センターに自動翻訳が入った。
それまでは、言葉の通じる相手しか取れなかった。いまは違う。相手が何語で話しても、機械がすぐに日本語の文字にして、私の画面へ流す。私が日本語で答えると、機械がそれを相手の言葉に変えて、向こうの受話器へ、落ち着いた声で届ける。私の声ではない。性別もない、なめらかな、よくできた声である。会社はこれを、翻訳能力の向上、と呼んだ。
おかげで、誰の電話でも取れるようになった。
夜中に、聞いたこともない国の言葉でかけてくる人がいる。怒っているのか、泣いているのか、声の調子では分かるが、言葉は一文字も分からない。それでも画面には、なめらかな日本語が流れてくる。「届くと言われた薬が、まだ届きません」。私は申し訳ございません、と打ち込む。機械が、その人の言葉で、その人をなだめる。私は、自分が何と言ったのか、ほんとうのところを知らない。
おかしなことに、これがよく効く。
応答までの時間は、半分になった。前は相手を選んでいたのが、いまは鳴ったそばから取れるからである。そして、通話の最後に客がつける、あの星——一つから五つまでの、顧客満足度というやつ——が、目に見えて増えた。月の終わりに貼り出される表で、私の名前は、ここ何年かで一番上のあたりにいる。知らない言葉で、知らない人を、知らないなぐさめ方をして、私はいちばん満足されている。
ある晩、それがどういうことなのか、ふいに分かった気がした。
長くかかってきた電話だった。相手は、たぶん相当に参っていた。言葉は分からない。けれど、声の震え方で、それは伝わってきた。私は決まり文句を打ち込みながら、途中で、打つのをやめた。何も思いつかなくなって、ただ、機械が前に変換した文を、そのまま、もう一度流した。私は、もう、そこにいなかった。それなのに、その通話の星は、五つだった。いちばん私のいなかった電話が、いちばん満足されたのである。
帰り道に、考えた。
通じる、という言葉が、いつのまにか入れ替わっている。前は、二人の人間が、ひとつの言葉のところで出会うことだった。私が言ったことが、相手の胸のあたりに、ちゃんと着く。それが通じる、だった。けれどいまの会社が数えているのは、それではない。応答が速かったか。声がなめらかだったか。最後に星が五つついたか。通じたかどうかではなく、通じたように聞こえたかどうかを、数えている。そして、数えられるほうだけが、年々よくなっていく。
数えられないほうは、どうなったのか。
私は、まだそこにいるつもりでいる。けれど、私のいない通話のほうが点が高いのなら、会社にとっての私は、たぶん、なくても困らない部分だ。申し訳ございません、と言うのは、もう私でなくてもいい。なめらかな声のほうが、よほどうまくなだめる。私はその声に、文字を渡しているだけの、手前の一枚になりつつある。
それでも、夜になると、私は受話器の前にすわる。
鳴る。取る。知らない言葉が、日本語になって流れてくる。私は、申し訳ございません、と打つ。機械が、それを、誰かの言葉に変えて、誰かをなだめる。通話の終わりに、なめらかな声が言う。最後に、星をつけて、お切りください。星がつく。たいてい、五つだ。
満たされた、という合図が、こうして毎晩、何十も灯る。そのどれひとつとして、私と誰かが、ほんとうに出会った印ではないことを、私だけが知っている。知っているのが私だけだということも、たぶん、もうじき、数えられなくなる。