油を使わずに揚げ物に近い食感を出す台所の機械、青菜が切れていた屋敷で奥方と旦那が交わす隠し言葉、同じ中身の靴なのに底面と上の布地だけが違う二足の運動靴。並べて書き出すと、どれもそれぞれ別の場所で動いている話に見える。

ただ、よく見ていると、どれも「中身そのものは変えずに、外側の薄い一枚だけを取り替えて、仕上がりを別物にする」という、同じ手つきの話なのではないか、という気がしてくる。

念のために断っておくと、これから書く揚げ物の話は、健康への効き目をうたうものではない。人によって体の反応も違うし、こうした調理に関わる健康の話は、まだ専門家の間でも議論があるという。私はあくまで、外側の薄い一枚の手当てが仕上がりをどう変えるか、という観察を並べたいだけのつもりだ。強い不調が続く方は、身近な医師に相談してほしい。

中身は残したまま、外側の一枚だけを取り替える。

順に書いてみたい。


1. 油の代わりに熱風で——揚げ物に近づく台所の機械

ある食の科学の動画で、油を使わずに揚げ物に近い食感を出す家庭用の機械の話を聞いた。中で起きていることは案外あっさりしていて、加熱の部分に強い送風を足し、熱い風を高速で食材のまわりに回しているだけだという。紹介してくれた方は「複数のヘアドライヤーで食材を囲んでいるような家電」と例えていた。

食材の中身そのものは、ほとんど変わらない。油で外側を素早く乾かして固めていた仕事を、熱風の一枚に肩代わりさせている。芋は芋のままだ。ただ、芋の外側を走るその薄い一枚の手当てだけが、油から風へと、そっくり置き換わっている。

それでも、揚げ物に「近い」とは言えても「同じ」とは言えないらしい。風で焦がしすぎてしまうと、食材の表面が高温で茶色く変わっていく途中で、健康面で注意されている物質が出やすくなる、という指摘もあった。紹介者の方は「黄金色のところで止めるのが良い」と何度も念を押していた。

この種の話は、人によって受け止め方も違うし、確かめ切れていないところも多いという。ただ、「中身は同じ、外側だけを別の手当てに代える」という発想の鮮やかさは、その慎重さとは別のところで、私の頭にしばらく残った。


2. 「義経にしておけ」——青菜が切れていた屋敷の取り繕い

夏の古典落語に「青菜」という噺がある。ある先代の名跡を継いだ噺家の方の高座で聴いた。

植木屋が、ある屋敷に呼ばれる。縁側で柳蔭と鯉の洗いを馳走され、結構な気分になっていると、旦那が奥方を呼んで「青菜を持っておいで」と言う。奥方は奥から出てきて、なぜか「鞍馬から牛若丸」と返す。旦那は涼しい顔で「ああ、義経にしておけ」と受ける。

隠し言葉だった。本当のところ、青菜は切れていた。それを客前で「ない」と言ってしまわずに、優雅な符牒の一枚で済ませてしまったのだ。

植木屋はこの一枚にしびれて、家へ持ち帰る。女房に「鞍馬から牛若丸」と返す稽古をさせ、誰か呼んできて再現しようとする。しかし、段取りが崩れる。客のはずの相手が違うことを言い出し、女房はとっさに「弁慶にしておけ」と歌舞伎ヒーロー違いの名前で締めてしまう。最後の一言は、静かにおかしい。

屋敷の旦那と奥方が交わした言葉の一枚の下には、長年の客あしらいと、台所の段取りと、奥方の控え方と、「無いものを無いと見せない」手当てが、薄く何枚も積もっている。植木屋はそのうちの、一番上の一枚だけを持ち帰った。中身が伴っていない外側の薄い一枚は、剥がれやすい。


3. 中身は同じ、底面と上の布地だけが違う——二足の運動靴

ある運動靴の比較の動画で、同じ会社の二足の運動靴を並べていた。値段も、踵から爪先までの寸法も、ほとんど同じ。真ん中のクッションも、同じ素材の組み合わせで揃えてある。違うのは、地面に接する底面と、足を包む上の布地だけだった。

一足は、古い溝の入った底面と、目の粗い柔らかな布地で、ふんわりと転がるような着地になる。もう一足は、外側に補強の入った底面と、目の詰まった布地で、足を前に押し出すような走りになる。中身の弾みはそっくり同じはずなのに、底面と布地という薄い一枚ずつだけで、紹介者の方の言葉を借りれば「別物のように感じる」のだという。

紹介者の方の結論は、普段使いの幅広い人には柔らかい方、走り方を整えながら距離を踏みたい人にはもう一方、と分かれていた。同じ中身を、別の外側の一枚で包み直したら、別の人に合う靴になっていた、ということなのだろう。

ただし、この違いを「別物」と感じ取れるのは、足の側に長く走った時間がたまっているからでもある、と動画を観たあとで思った。外側の薄い一枚は、足の側がぼんやりしていれば、ぼんやりとしか伝わらない。


まとめ

3 つを並べると、ばらばらに見えていた題材の真ん中に、似た形が浮かんでくる。芋の表面、奥方の口、靴の底面——どれも、内側そのものはほとんど触っていない。動いているのは、薄い外側の一枚だけだ。

中身を入れ替えるよりも、外側の一枚だけを取り替えるほうが、たいてい手間も少ないし、戻すのもたやすい。だから人は、油の鍋を熱風の機械に置き換え、「青菜が切れている」を「義経にしておけ」と言い換え、走る人に「同じ真ん中で違う底と上」の靴を勧める。中身の方を一から作り直す代わりに、外側の一枚で別物に届く道を、ずいぶん前から見つけてきたのだと思う。

内側外側の一枚仕上がり
食材そのもの油の代わりの熱風揚げ物に近い食感
屋敷の事情「義経にしておけ」の符牒客に「ない」を見せない
靴の中の弾み底面と上の布地別の人に合う走り心地

ただ、薄い一枚の手当てが効くのは、その一枚の下に、なにかが積もっている時のようでもある。熱風で芋を「黄金色のところで止める」加減も、屋敷の奥方の符牒も、底と上を選んで履きこなす足の感覚も、その一枚の下に、たくさんの繰り返しと、何度も焦がし損ねた経験と、長く動いた時間が眠っている。植木屋が屋敷から持ち帰った一枚があれほど早く剥がれたのは、その下のほうがまだ薄かったからだった。

外側の薄い一枚で仕上がりを別物にできる、というのは、たしかにある。ただ、その一枚を上手に貼れる手は、自分の中身と長く付き合った人のなかにしか育たないのではないか、という気がしている。


参考にした動画